錯乱。

 ここのところ錯乱してます。いろいろな事を同時進行する事が効率的と思いながら、やってきましたが、錯乱してきました。これは、どうなる事やらと心配していましたが、また、だんだんとまとまってきました。
 バイオリズムなのでしょうか?ものの考え方が揺れるのです。妬み、恨む事が物事を止める事はわかっているのですが、錯乱している時は、それに流されてしまうのです。その状態に居る事に気付かず、ただ、うなだれるのです。
 今日は、親子殺害の再審のニュースが流れました。残された方の言い様はあるのでしょうが、それでは前に進まない事はどうしようもなく感じてしまいます。今の時代、司法がそうしているのです。殺人ではなく、残された者の生き方に意味を置くのです。
 果たして、なぜそこに意味を持たせるのかが重要なのです。日本の歴史にはあまり感じられない考え方です。果たし合いがあり、復讐があり、自決があった中で、なぜ今、嫁と幼子を殺した少年を受け入れる事が出来るのでしょうか?
 受け入れる事が今の時代なのです。これには何も錯乱はありません。法はそうなっているのです。復讐の為の法は無いのです。少年が母子を殺した罪は償わなければいけません。復讐される事はあり得ないのです。
 では、どのように対応しなければいけないのか?が問題です。答えはメル・ギブソンの「パッション」なのではないかと思います。人が神にならなければ生きて行けないのです。司法がそうしてしまったのです。理想を追ったのでしょうか?それが現実なのでしょうか?司法はどこに行ってしまうのでしょうか?ただ、答えは明らかです。神にならなければ理解は出来ないのです。宗教裁判の域に達し、ジャンヌ・ダルクが現れれば、また世界は変わってしまうのです。

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